年収1,000万円のレベル感 [前編]

東京限定で年収の分布を見ると、1,000万円以上の給与所得を得ている層の出現率は20代で1%、30代で3%、40代で17%だそうだ。80sの感覚としてはクラスに2-3人いる感じだ。

sourceは転職サイトのDodaで、サンプル数はホワイトカラー約10万人とのこと。同世代に絞ってみると、総人口は80年代なら大体150万人で、学力が平均以上の人がホワイトカラーとして労働しているとすると75万人。国税局の調査によると納税者のうち約30%が東京都に納税しているということなので、東京勤務の同世代は23万人。その1-3%とすると約5,000人の1,000万円を超える給与所得者がいることになる。

こうやって具体的な数に落として行くとかなり少ない印象だ。

一流大学を旧帝大一工+早慶上と定義すると年間の卒業生の数は大体4万。ゴロゴロいるように感じてしまうが、給与レベルの高いと言われる東京で拡大推計してもいわゆる一流校を卒業しても上位10%くらいしかたどり着く事の出来ない水準。所謂一流大学の卒業生なら、仲良しグループに数人いる感じかもしれない。

と、ここまでは客観的なレベル感を数字で見てきたが実際に都内にいると”上位感”を感じる事はあまりないだろう。それは主に下記の理由に由る。

  1. 高いベース生活費:家賃で言うと柏市と港区の1Rでは平均値で2倍違う。せっかく多めにもらっている給料も、家賃でかなり飛ぶ。社宅などある会社は別だが、大部分の年収高めの人はその高所得を確かめるように好んで港区・中央区の高級マンションに住む。投資銀行では節税対策として社宅扱いで契約してくれるところもあると聞くが、家賃補助ではない。
  2. 底なしで増える交際費:平均所得が高い分つるむ友達の所得は地方よりも高めだろうし、美味しい食べ物を提供するお店も高額のレストランも多い。富裕層は都心に集中し、S・Aクラスの同世代女性を彼らと取り合うとなると出費もうなぎ上り。稼ぐ額が多くなるほど「まだ足りない」と感じる瞬間も増える。
  3. 周りとの比較:例えば港区だとフェラーリ、ランボルギーニ、ポルシェ…と高級車をみかけない日はない。投資銀行に就職した同級生がファンドに転職して家賃50万円の赤坂のマンションに引っ越したなんて話を聞く事になる。ちょっとホームパーティに呼ばれたと思ったら芸能人がゲストで来たり、自分の所得が世間様とくらべて高いと感じられる瞬間は少ない。

とまぁ、せっかく達成しても都内在住社はなかなか「イケてる俺・私」を感じる事ができないのが年収1,000万なのである。稼ぐ分多く出て行くし、周りとの比較で優越感を感じる事が極めて難しい集団なのだ。

次回は日々の暮らしの具体的な例を見てみよう。

blogを始めた動機

昔読んだ本に「地獄に来たと思ったら、先ずするべきは記録を取り始める事。記念撮影をして、毎日日記を書こう。運が良ければそこは地獄じゃないということに気付けるかもしれないし、最悪の場合でも地獄の記録というなかなか得難いキラーコンテンツが手に入るだろう。」という一文があった。

地獄というにはあまりに恵まれていると思うが、今まで体験した事のない種類の悩みを持っていることは事実。こうして文章に落とす事で客観視できて気付きが生まれればそれは儲け物だ。だから基本的に、これは極めて個人的な目的のための備忘録だ。

昨日はベンチャーでdirectorになった元同僚、前職でmanagerになった元同僚と飲んだ。あまり気負いがなくなったせいか、かなり正直に悩みを相談したら、それなりに示唆のあるコメントをもらった。一番大きな気付きは「今の会社で何を達成したいのか。その為のバリアは何なのか。」という自己認識と環境認識の両方が欠けているということだった。今までは強制的に与えられてきたモノが、今のポジションでは自分で見つけるモノと定義されている。数値目標はもちろんあるが、それだけでは哲学や深い動機は生まれないのだな、と気付けた。

さぁ、明日も働こう。

欲しかったもの

・20代で年収1,000万円超えの仕事
・多言語を扱いながら海外と交渉してやりたいことを実現するよな毎日
・プールのついたタワーマンションでの優雅な暮らし
・年に数回のビジネスクラスでの出張
・有名企業や士業で活躍する友人たち
・美しい妻
・笑いの絶えない幸福な家庭の風景
・都内一等地の綺麗なオフィスで颯爽と働く自分
・魅力的な女性達と都内の有名レストランで嗜むご飯とワイン

欲しかったものを手にいれればその分、それでは埋められなかったより本質的な心の闇に近づいて、頑張っても満たされなかった事実に向き合うのが怖すぎて、周りとの安易な比較に心の安らぎを求める。もしくはすべて忘れさせてくれるような色恋を求めたり、自分を失うほどお酒を飲んだり。体の芯から満たされたと最後に感じたのは、もう何年前だろう。

彼・彼女に必要以上にイラつかせられるのは、たぶん本当に欲しいものに勇気を出して手を伸ばしている人達だから。

もうそろそろ、点取りゲームから降りる時期が来ているのかもしれない。

同じ景色を見ることは二度とない

ちょっと前に、以前勤めていた会社の同僚から連絡があって大量解雇とのこと。世界レベルで見れば業績は好調だったはずで、しかも日本の利益率はかなり良かったはずなので(採用活動の時に聞きかじったレベルで各国のP/Lを見比べたわけではないが)、先手を打ってかなり大胆な人員整理をしたな、という印象である。

その会社には数年勤めていて、人が好きだったし、そこでできる仕事も大好きだった。最後に仕えたチームは最高だったし、人格的にもプロフェッショナルとしても尊敬できる上司の下で働けて幸福だった。でももうそこに、同じ環境はない。自分が入れ込んでいたものが、そんなにあっけない土台の上に成り立っていたなんて俄かには信じがたかったが、会社は数年位及ぶ激務の対価に最後のレッスンとしてあらゆるものの儚さを教えてくれたのかもしれない。

今の仕事も、会社も、ポジションも、いつなくなってもおかしくない。日本という市場が人口という最大のビジネスドライバーを失って、遅いか早いかの違いでどこもそういう状況に追い込まれるだろう。生き残るには、普遍的な市場・成長する市場で、常に尻尾からできるだけ遠い場所で居続ける努力をし続けるしかない。

もうあの景色を同じメンバーとみることはできなくなってしまったんだ。